履霜堅冰至
<序>
坤爲地初六
初六。履霜堅冰至。
初六。霜(しも)を履(ふ)みて堅氷至(けんぴょういた)る。
象曰、履霜堅冰、陰始凝也。馴致其道、至堅冰也。
象曰、履霜堅冰(りそうけんぴょう)、陰始めて凝(こ)るなり。その道を馴致(じゅんち)すれば、堅氷に至るなり。
初霜が降りたらその内に川も大地も堅く氷る時節が到来する。
<第一回>【天雷无妄 (wu-wang,Innocence)】
第一回に陰謀の話をするかそれとも易経の話をするかを多少考えた。どちらも早急に話すべき事柄である。
やはり大きい話を先にするべきであろうと考えると世界の陰謀と易経とを比較すればどちらが大きいのかは最早明らかである。
社会なぞはいつ何時又勝手に滅びようが一向に構わないが、易理は不朽不滅であり窮(きわま)る事がない。
それに私は陰謀を深く追求して行った暁に道徳というのが極めて大事だと気付かされた為、道徳の話は陰謀の最先端でもある。
易経六十四卦の中に天雷无妄(てんらいむぼう)という卦がある。
易経を読めば分かるが卦というのは卦自体に文言がありまた六爻(コウ)各自にも文言が付いている。
天雷というのは陽陽陽が天、陰陰陽が雷という取り決めが最初にある為に陽陽陽陰陰陽と出た際には之を天雷・无妄と呼称するのである。
私も易経は未だ大して知らないので興味のある方は精確な所は本に依って頂きたい。余計だが、ネット上の易経講釈にはロクでもない物が多々混じっている為、必ず岩波文庫かそれ以上の正書に依られたい。
无妄は即ち妄なる物がない訳であるから極めてまともである状態を表す。人によっては无妄=誠と云う。
即ち誠意という意味の卦であるとも言える。
初爻から上爻までの六つの爻の内容を要約すると、
―上:无妄の道も窮れば眚(眚(わざわい)は人間の引き起こす災難、天災と併せて眚災(せいさい)と呼ばれる)を起こす。
―五:誠意によって起こる病気には薬を使ってはいけない。若しくは、病気も勝手に治る。
―四:无妄の徳がある(陽爻はしばしば有徳の大人と見做す)のでそれを保てば咎はない。
--三:无妄であっても不測の災を受けることがある。
--二:富もうとする心がなく无妄のままに行動すれば即ちそれが利である。
―初:无妄の徳を持って行けば志を得る。
となる。勿論これ以外の解釈は幾らでもできる。
ここで面白いのが最終的に无妄の道が極ればどうなるかと言うと、災いを引き起こすというのである。
初爻にも无妄のまま行動するとあるが、こちらは志を得るとある。
実占の話をすれば、自分はある事柄について天雷无妄の初爻が出た際、これはいい卦が出たぞと油断していたらとんでもない目に遭ったということが少し前にあった。当時は、无妄=災いとは知らなかったのである。
また今検索して初めて知ったが、まるで自分の言いたい事を代弁するかのような極めて興味深い話がある。
http://www.sakkaastro.com/eki/eki_25.htm
上の易聖高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の話と全く同じことを言おうとしていたのだが、雑卦伝というのがあり、その中には『无妄は災いなり』とある。
即ち、これが昔の人は凄いというか見抜いてたというか、誠意が災いと同一という。
誠意を持って行動したらそれが必然的に災いを呼び込むのであるという。
これは一見矛盾しているようにも見えるが、実人生を振り返ってみればまさにその通りであると分かる。
例えば、インターハイに行きたい、と言えば『無理だよ』と周りに言われる。アニメーターになりたい、と言えば『絶対無理だよ』と言われる。
司法試験を受ける、と言えば『君は辞めて置いた方がいい』と言われる。
俺は正しいと思ったからやったんだ。後悔はない。こんな世界とはいえ俺は自分の信じられる道を歩いていたい。と言えば、上司から次々と刺客が送り込まれる。
陰謀を主張したら相手にされない。『自由に発言して下さい』と言われたら既に過去の自由な発言のお陰でマークされている。
この薬は論理的に考えて絶対に効く訳がないと言うとまず馬鹿にされる。次に無視される。ある日会社に行ったら机がない。それでも会社に行く。帰ってきたら家が燃えている。そして痴漢と不正蓄財で逮捕されても懲りなければ最後には変死体で発見される。
まとめると、経験則のみからはこの世界ではどうも良かれと思ってやった事は大なり小なり自分に災いとなって返ってくる事があるようなのである。
また、よく我々は『無謀(むぼう)な挑戦』等という言葉を使うが、これなどはまさに无妄の災を呼び込まんとする行動のことである。
最初の小さな『無理だよ』の一言から最後の後頭部殴打まで、これは災いと見做してもよいであろう。又こちらに誠意があるという点に関しては一貫していよう。
では誠意のある人間はどうしたらいいかというと、序卦伝の中に无妄なりて然る後に蓄うべし。故に之を受けるに大畜を以ってす。とある。
即ち、次の大畜(たいちく)の卦に移るのである。
大畜の内容をかいつまんで言えば、多識前言往行、以畜其徳と云うように、過去の人間の経験をよく研究しそれによって己の徳を涵養せよという事である。
また、大畜には『留める』という意味もある。徳・能力・行動を己の内部に留め置く、またそういった術を会得する訳である。
例えば、上記の如き反応形成は集団マインドコントロールやペンデュラムといった概念で説明できるなと理解できれば、そこから自分がどうすればいいかが自ずと見えてくる。これは大畜の道の一端である。
反対に、无妄という内心の純粋なエネルギーそのものを実行に移す前に社会を理解すること、例えばやはりインターハイ後の進路であるプロスポーツやノーベル賞は政治的な要素が実は殆どであったとハタと気付き、正業を継ぐ事にエネルギーを使うのが重要だったと理解することも大畜の道の一端である。
大畜の道が極まれば何天之衢、道大行也。(天の衢(ちまた)をになうとは、道大いに行われるなり。)と云い、ここに来て留める必要がなくなり、大いに道が行われるのである。これは頤・大過・習坎・離の特殊な形の卦を除けば乾坤から始まる易経前半部の一つの完成した形であるとも言える。
无妄と大畜の関係は極めて普遍的でありなおかつ極めて重要であるので今後また何回も繰り返し考察するだろう。
以上、余りにも当たり前の話である。
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