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 話題を陰謀に移ろうと思ったが、易経に馴染のある方が多いとは限らぬ為、先ず前回のフラグを回収して置きたい。


 また、バートランド・ラッセルとスターリンをやる予定であったが調べれば調べる程最初のイメージと違って行くので、おそらくディテールが破綻した物になりかねぬ。


 これは学術的には無価値の物になるであろうが、ハナから学術には何も求めていない為全く構わないであろうと考える(学術についてはそのうち考察する)。一番大切な核となる部分は色々と枝葉末節が今後出現しようとも変わらない。いずれにせよそれは次回以降になる。


 また、枝葉末節を一切考えないという思考方法が極めて有効であるという大変興味深いおそらく事実についてはまた考えたい。
 
 

 従って前回に続く。
 
 
 
 前回、易経前半部分に於て山天大畜の次には頤(い)、大過(たいか)、習坎(しゅうかん)、離(り)の4つの特殊形が来ると書いたがこれについて説明したい。


 ちなみにこれは自分が勝手にそう呼んでいるだけであるので学者に言っても恐らくは通用しまい。ひょっとしたら同じ事を考えている人間がいるかも知れない。
 
 
 
 先ず、易経の前半と後半が何について述べているのかという事であるが、自分は前半は例えば人間等の実在の物について述べており、後半は例えば社会という概念、家という概念といった概念上、所謂形而上の物について述べていると考える。くどい様だが、こう考えたのは自分だけであり、また他の見方も無限に考えられると思う。


 つまり、乾為天(けんいてん)、坤爲地(こんいち)という光そのものと物質そのものから始まる前半部分と、澤山咸(たくさんかん)と雷風恆(らいふうこう)、フィーリングから始まり結婚して家庭を持つという形而上の物についての後半部分に分かれると考える訳である。勿論、前半部はすぐにこれが徳と様態の話に移行し、また、後半部も色々あって社会の状態や徳の話に移行していく。


 そう考えると中々どちらがどうと分け切れる物ではない、二本の独立した話となっていると考えるのが妥当であるとも云える。

 
  
 山天大畜で蓄えた次にはどうなるかというと山雷頤(さんらいい)の卦がくる。頤(い)とは(おとがい)とも読み、ようするに顎の形になっている。


 現代において我々は中々気付かないが、というより自分は本当に情けない事に失念していたが、以て養うに足るというのは極めて大きい事である。頤の卦が出た時には従って相当景気がいい、若しくは相当に大きい事を言っていると判断すべきである、と自分は考える。
 

 彖曰、頤貞吉、養正則吉也。觀頤、觀其所養也。自求口實、觀其自養也。天地養萬物、聖人養賢以及萬民。頤之時大矣哉。

 頤は貞にして吉とは、正を養えば則ち吉なるなり。頤を観るとは、其の養う所を観るなり。自ら口の実を求むとは、其の自ら養うを観るなり。天地は万物を養う、聖人は賢を養いてもって万民に及ぼす。頤の時、大いなるかな。

 象曰、山下有雷頤。君子以愼言語、節飮食。
 山の下に雷あるは頤なり。君子もって言語を慎み、飲食を節す。
 
 


 頤の次には沢風大過(たくふうたいか)が来る。これはイメージとしては台風そのものであろう。


 また、頤で養うに足る時には大いに動くことができ、そのような時分には大いに行き過ぎることになる、という意味でも使われる。これの意味も果てしなく広い。易経講和には『大なる者が過ぎること、物事が大いに過ぎることの二つの意味がある』と書いてある。


 卦の形で言えば、上に沢があり、下に木があるが、沢の水があまりに多い為に下の木が滅してしまうという意味がある。必要な物でも多すぎると害を齎す、陽が陰より甚だしく盛んでも良くない結果を生ずるのである。勿論逆もあり、それは雷山小過(らいさんしょうか)といいこちらは小なる者が過ぎる為に禍を呼ぶのである。
   


 
 彖曰、大過、大者過也。棟橈、本末弱也。剛過而中、巽而説行。利有攸往、乃亨。大過之時大矣哉。
 大過は大なる者の過ぐるなり。棟の橈むは本末の弱きなり。剛の過ぎて中なり、巽にして喜び行く。行く所あるに利あり、すなわち亨る。大過の時、大いなるかな。
 
 象曰、澤滅木大過。君子獨立不懼、遯世无悶。
 沢の木を滅すは大過なり。君子は独立して懼れず、世を遯(のが)るれども悶(いきどおり)なし。
 
 


 大過の次には習坎(しゅうかん)、若しくは坎爲水(かんいすい)の卦が来る。


 これは易経の中では艱難や険難を現す極めて厳しい卦である。水の上に水が重なっており、大海原に投げ出されたような状態である。易経講和には、大過を良い方面から見て、若し大いに人に過ぎたる道徳才能があって、大いに人に過ぎたる事業を行うとしても、それはいつまでも永続すべきわけはないのであり、必ず行き詰って、終に険難の中に陥るのである。大過の英雄の末路は、必ず穴の中に落ち込むのである。と極めて景気の悪いことが書いてある。


 勿論2つの陽コウが中を得ているという所から、このような時宜に当たり、至誠、剛強、中庸の徳を持って艱難に対処して行くという良い意味にも捉えられる。
 


 
 彖曰、習坎、重險也。水流而不盈、行險而不失其信。維心亨、乃以剛中也。行有尚、往有功也。天險不可升也。地險山川丘陵也。王公設險、以守其國。險之時用大矣哉。
 習坎は重ねて険しきなり。水流れて満ちず、険しを行きてその信を失わずなり。心をつなぎて亨るとは、すなわち剛中をもってなり。行きて尚ぶあり、往きて功あるなり。天の険しきは昇るべからずなり。地の険しきは山川丘陵なり。王公は険しことを設けて、もって其の国を守る。險の時用は大いなるかな。
 
 象曰、水?(洊)至習坎也。君子以常徳行、習教事。
 水しきりに至るは習坎なり。君子もって徳行を常とし、教事を習わす。
 


 
 そして易経前半の最後には離爲火(りいか)、火・火の卦が来る。離は火、文明と見、この離爲火の卦自体を太陽とも考える。また離には付くという意味もある(現代では何故か離れると言えば正反対の意味である)。


 前の坎の卦で陥る訳であるが、陥れば必ず何処かに麗(つ)く訳であり、例えば国家が艱難の中に陥る時は、その艱難の中に何処かに落ち着くべき所があって、そこに落ち着いてそこから復興していく道が開ける訳である。
 


 
 彖曰、離麗也。日月麗乎天、百穀草木麗乎土、重明以麗乎正、及化成天下。柔麗乎中正、故亨。是以畜牝牛吉。 
 離は麗なり、日月は天にて麗なり、百穀草木は土にて麗なり、重明をもって正に麗く、ちなわち天下を化成す。柔は中正に麗く。故に亨る。是れをもって牝牛を畜うに吉。

 象曰、明兩作離。大人以繼明、照于四方。
 明ふたたび作るは離なり。大人もって明を継ぎ、四方を照す。
 


 
 
 以上が自分が特殊形と述べた4形である。



 
 道徳才能の涵養の有無や時宜に適っているか等でこれらの上にも吉凶禍福が分かれる事になる。




 また実際の歴史上の人物や国家、例えばハンニバルやカエサル、ローマや戦前日本等と重ね合わせて見ることも可能である。こういう事は歴史上に実際によく起こっている筈である。

 さらには大洪水や噴火・核戦争等とも取ることができるが、これを言い出すとカルト教団がまた邪な事を絶対に考え出すのでやめておきたい。
 

 
 兎に角、これらの卦の意味は極めて広く取れる。自分が面白いと感じるのは、最後の最後、離の上コウにきて漸く出征して吉を得るという所である。
 
 


 上九。王用出征。有嘉折首。獲匪其醜、无咎。
 上九。王用って出征す。嘉きこと有りて首を折る。獲るもの其の類にあらざるならば咎なし。
 象曰、王用出征、以正邦也。
 象曰、王用って出征す、もって邦を正すなり。
 



 
 前半で出征していいという卦は謙の五コウ、離の上コウであり、謙譲即ち小さくなっている事や文明の上に文明が重なって漸く出征していい事がある、しかも両者とも国内を正す(正邦)為の出征であるというのが極めて面白い。


 帥(し)という卦があるがこれはよく読めば出征しても一様には吉を得ないというような意味の事が易経講和にある。これと併せるとさらに面白い。
 
 
 
 どうやら出征というのはやむにやまれず行うのがいい様であり、戦前の日本軍の如き地水帥(し)や火地晋の勢いに任せるようなやり方(晋は日の出の象である、と思う。朝日新聞の下に太陽があり光線が出ている旗印、戦前の軍旗にも使われていた物がそれである。ちなみに日中が火天大有、日の入が火山旅である)はやっても宜しいことはないのである。
 
 

 
 この点は重々反省を要すべき点であり、また出征に於いて文明や謙譲が必要なのは何故かという点から話は陰謀へと繫がって行く。

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次回記事は2月21-5頃を予定。
2PACの映画『above the rim』。この映画は急場を凌いだらすぐに見てみたいと思う。
 
2 Pac Pain above the rim Big Stretch 
http://jp.youtube.com/watch?v=EPHJkQJnmYc
 
 
 
 さて唐突だが、自分は今迄散々陰謀について語って来た訳であるが、どうも頭を使い慣れていない(普通の)人間にとってはどうもこれが耐え切れないらしい。
 
 例えば、『陰謀を恐れる必要はない』と自分の頭の中では解答が出されている場合に、これをこのままの形で伝えようとすると相手には『陰謀』『恐れる』という言葉のイメージのみが喚起されてしまう場合の方がどうやら圧倒的に多い様なのである。
 
 これは進化の過程を考えれば容易に想像のつく話である。何故なら我々の脳は爬虫類の脳(辺縁系lymbic system)の上に大脳新皮質telencephalon,neo-cortexが乗っかった形になっていて、当然瞬間的にはそちらの方を経由して情報が処理される訳である。
 
 これは特に2重否定形に対する瞬間的な解釈のミスに繋がる。2重否定形が英語にしろ漢語にしろ通常の肯定形よりも強力な意味合いを含んでいる事から考えれば、現実的な意味ー解釈上のギャップは相当な物になる筈である。この点に関しては極めて面白い為、また考察する。
 
 そうして、『陰謀を恐れる必要はない』と各所で言い捲る事が、結果として人々の陰謀に対する恐怖を増加させるという皮肉な結果になっている。
 
 これは勿論、陰謀を仕掛ける側にとっての狙い筋でもある。人間は総体としては爬虫類並の脳しか持っていないと割り切り、単なる嘘を適当にオドロオドロしい名前で修飾しておけば勝手に逃げて行ってくれるだろうという読みは一面では成功しているとも考えられる。
 
 
 
 
 という事で、私は今までに空気を読む(笑)事はして来なかった。これからも『重要局面に於いて爬虫類脳を使う』などという愚考を犯す事はない。
 
 だが、人々との関係性の観点から、発想を一気に転換しポジティブな事のみを書き続ける。思考もポジティブ一色にする。
 
 何故なら、反対側の方はほぼ極め尽くしたと言っても過言ではない為、今後自分の思考がどうであろうと方針自体は保たれるであろうからである。この点は重要である。最初から何でも肯定したらすぐに宗教に嵌ってしまう。全部を精確に記述すれば沛(暗幕)に覆われて人々に伝わらない。爬虫類脳をプラスに保て。その上で思考を回転させよ。
 
 
 
 俺はシャバダバである。
 
 
 
 という訳で、PACのシックなヴァース(英語は日本語脳で解釈すれば何でもポジティブだ)は大好きである。今はその代わりにプーチン大統領のポジティブな言葉を載せて置く。次の更新までは最初に投稿したPACのヴァースの代わりにこれを読んでいて頂きたい。
 
 
 
 おそらくは『300人委員会』より
 
 
 プーチンは極めて忍耐強く、訓練された士官であり、必要であれば時期を待つことが出来る。
 
 
 
 
 
 『第三次世界大戦』より
  
 P.19
 
 プーチンはレーニンの言葉を引用した。
 
 「大切なのは最強であることだ!そして決定的な場所で決定的な瞬間に勝つことだ」
 
 
 
 P.205
 
 セオドア・ルーズベルト大統領は後年、息子のテディ・ジュニアに宛てた手紙でうかつにもこう漏らしてしまった。
 
 「内緒だが、ロシアが負けてうれしい。誰にも漏らしてはいけない。私は日本が勝ってとても嬉しい。日本はわれわれの思い通りに動かせるからだ」(『黙示録の野獣』より) 
 
 
 
 
 P.263
 
 「もし西欧が我々を地獄に追いやろうとしても、連中を道連れにする用意が出来ている」とオルガコフは語った。
 
 
 
 P.277
 
 プーチンを知る私の知人たちは、彼は何事も真に受けないと評する。かつてアメリカを次のように評したことでプーチンは信用されている。「絶対に外面だけでは判断できないのが国家というものである。外面で判断を下すのは危険である、とくにアメリカが関わっている場では」
 
 
 
 
 「アメリカを弱体化させる最良の策は、その若者達を麻薬常習者に仕立てることだ」(コチャーギン)
 
 
 
 
 
 P.285
 
 スターリンは、「ロシアはウォール街の銀行家達の奴隷になるつもりは一切ない」と言い切り、外交問題評議会(CFR)の必死の努力にも関わらず、彼はロシアを新世界秩序に参加させなかった。
 
 
 
 
 
 
 

 履霜堅冰至

 <序>
 坤爲地初六
 
 初六。履霜堅冰至。
 初六。霜(しも)を履(ふ)みて堅氷至(けんぴょういた)る。
 象曰、履霜堅冰、陰始凝也。馴致其道、至堅冰也。
 象曰、履霜堅冰(りそうけんぴょう)、陰始めて凝(こ)るなり。その道を馴致(じゅんち)すれば、堅氷に至るなり。
 
 初霜が降りたらその内に川も大地も堅く氷る時節が到来する。
 
 
 
 
 
 
 <第一回>【天雷无妄 (wu-wang,Innocence)】
 
 第一回に陰謀の話をするかそれとも易経の話をするかを多少考えた。どちらも早急に話すべき事柄である。

 やはり大きい話を先にするべきであろうと考えると世界の陰謀と易経とを比較すればどちらが大きいのかは最早明らかである。

 社会なぞはいつ何時又勝手に滅びようが一向に構わないが、易理は不朽不滅であり窮(きわま)る事がない。

 それに私は陰謀を深く追求して行った暁に道徳というのが極めて大事だと気付かされた為、道徳の話は陰謀の最先端でもある。
 
 
 
 易経六十四卦の中に天雷无妄(てんらいむぼう)という卦がある。
 
 易経を読めば分かるが卦というのは卦自体に文言がありまた六爻(コウ)各自にも文言が付いている。

 天雷というのは陽陽陽が天、陰陰陽が雷という取り決めが最初にある為に陽陽陽陰陰陽と出た際には之を天雷・无妄と呼称するのである。

 私も易経は未だ大して知らないので興味のある方は精確な所は本に依って頂きたい。余計だが、ネット上の易経講釈にはロクでもない物が多々混じっている為、必ず岩波文庫かそれ以上の正書に依られたい。
 
 无妄は即ち妄なる物がない訳であるから極めてまともである状態を表す。人によっては无妄=誠と云う。

 即ち誠意という意味の卦であるとも言える。
 
 初爻から上爻までの六つの爻の内容を要約すると、
 
 
 ―上:无妄の道も窮れば眚(眚(わざわい)は人間の引き起こす災難、天災と併せて眚災(せいさい)と呼ばれる)を起こす。
 ―五:誠意によって起こる病気には薬を使ってはいけない。若しくは、病気も勝手に治る。
 ―四:无妄の徳がある(陽爻はしばしば有徳の大人と見做す)のでそれを保てば咎はない。
 --三:无妄であっても不測の災を受けることがある。
 --二:富もうとする心がなく无妄のままに行動すれば即ちそれが利である。
 ―初:无妄の徳を持って行けば志を得る。
 
 
 となる。勿論これ以外の解釈は幾らでもできる。
 
 ここで面白いのが最終的に无妄の道が極ればどうなるかと言うと、災いを引き起こすというのである。

 初爻にも无妄のまま行動するとあるが、こちらは志を得るとある。

 実占の話をすれば、自分はある事柄について天雷无妄の初爻が出た際、これはいい卦が出たぞと油断していたらとんでもない目に遭ったということが少し前にあった。当時は、无妄=災いとは知らなかったのである。

 また今検索して初めて知ったが、まるで自分の言いたい事を代弁するかのような極めて興味深い話がある。
 http://www.sakkaastro.com/eki/eki_25.htm

 上の易聖高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の話と全く同じことを言おうとしていたのだが、雑卦伝というのがあり、その中には『无妄は災いなり』とある。

 即ち、これが昔の人は凄いというか見抜いてたというか、誠意が災いと同一という。
 
 誠意を持って行動したらそれが必然的に災いを呼び込むのであるという。
 
 
 
 これは一見矛盾しているようにも見えるが、実人生を振り返ってみればまさにその通りであると分かる。

 例えば、インターハイに行きたい、と言えば『無理だよ』と周りに言われる。アニメーターになりたい、と言えば『絶対無理だよ』と言われる。 

 司法試験を受ける、と言えば『君は辞めて置いた方がいい』と言われる。

 俺は正しいと思ったからやったんだ。後悔はない。こんな世界とはいえ俺は自分の信じられる道を歩いていたい。と言えば、上司から次々と刺客が送り込まれる。

 陰謀を主張したら相手にされない。『自由に発言して下さい』と言われたら既に過去の自由な発言のお陰でマークされている。

 この薬は論理的に考えて絶対に効く訳がないと言うとまず馬鹿にされる。次に無視される。ある日会社に行ったら机がない。それでも会社に行く。帰ってきたら家が燃えている。そして痴漢と不正蓄財で逮捕されても懲りなければ最後には変死体で発見される。

 まとめると、経験則のみからはこの世界ではどうも良かれと思ってやった事は大なり小なり自分に災いとなって返ってくる事があるようなのである。

 また、よく我々は『無謀(むぼう)な挑戦』等という言葉を使うが、これなどはまさに无妄の災を呼び込まんとする行動のことである。
 
 
 最初の小さな『無理だよ』の一言から最後の後頭部殴打まで、これは災いと見做してもよいであろう。又こちらに誠意があるという点に関しては一貫していよう。

 では誠意のある人間はどうしたらいいかというと、序卦伝の中に无妄なりて然る後に蓄うべし。故に之を受けるに大畜を以ってす。とある。

 即ち、次の大畜(たいちく)の卦に移るのである。
 

 大畜の内容をかいつまんで言えば、多識前言往行、以畜其徳と云うように、過去の人間の経験をよく研究しそれによって己の徳を涵養せよという事である。

 また、大畜には『留める』という意味もある。徳・能力・行動を己の内部に留め置く、またそういった術を会得する訳である。

 例えば、上記の如き反応形成は集団マインドコントロールやペンデュラムといった概念で説明できるなと理解できれば、そこから自分がどうすればいいかが自ずと見えてくる。これは大畜の道の一端である。

 反対に、无妄という内心の純粋なエネルギーそのものを実行に移す前に社会を理解すること、例えばやはりインターハイ後の進路であるプロスポーツやノーベル賞は政治的な要素が実は殆どであったとハタと気付き、正業を継ぐ事にエネルギーを使うのが重要だったと理解することも大畜の道の一端である。

 大畜の道が極まれば何天之衢、道大行也。(天の衢(ちまた)をになうとは、道大いに行われるなり。)と云い、ここに来て留める必要がなくなり、大いに道が行われるのである。これは頤・大過・習坎・離の特殊な形の卦を除けば乾坤から始まる易経前半部の一つの完成した形であるとも言える。

 无妄と大畜の関係は極めて普遍的でありなおかつ極めて重要であるので今後また何回も繰り返し考察するだろう。
 
 
 
 
 
 
 以上、余りにも当たり前の話である。
 
 
 
 
 



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